やりがい搾取撲滅と会社の存続はできるのか?

目次

『社会貢献』『人間性の向上』『金のために働くためだけで良いのか?』
とか、まるでお経・呪文のように言う人がいます。

実際に京セラの故・稲盛和夫氏も生前、
『死を迎えるときには、地位も名誉も財産全て脱ぎ捨て、魂だけを携えて新しい旅立ちをしなくてはいけません。…自分の人間性を高め、精神を修養し、この世にやって来たよりも少しでも次元の魂を持ってこの世を去っていく。私はこのことよりも他に、人間が生きる目的はないと思います。』と語ったとされます。

この地点で『宗教臭い』と感じる人もいるのではないでしょうか?
故・松下幸之助氏の経営についての考えも、まるで宗教みたいと揶揄されることがあったとされます。

今日はやりがい搾取の問題と社員1人1人の幸せ、
そして会社が生き残るためにはどのようにすればいいか?を
考えていきたいです。

やりがい搾取と判断されやすい場合

やりがい搾取についてChat-Gptに尋ねると、

と出てきます。(世の中便利になってきてますね)

ここで言う『やりがい』は、叶えたい夢や希望、将来の人生設計も入るかと思います。
人をその気にさせて釣るだけ釣って、不当な労働環境で奴隷のように酷使する状態ですね。

実際には、どのような場合がやりがい搾取と判断されやすいのでしょうか?

  1. 仕事量に対して給料が低すぎる。
  2. 精神論を押し付けられる。
  3. 労働時間とは扱われない時間がある。

とされます。(こちらもChat-Gptから引用)

たまに朝の通勤している時に見る風景として、
会社やお店近くで清掃ゴミ拾いをしている方を見かけます。

清掃ゴミ拾いに従事している社員さんがいてくれるお陰で
町はキレイになっているのですが、もし本当はしたくもないのに
会社の業務として従事させられていて、その行為を『労働』とみなされていないのなら
問題になるかも知れないですね。

経営目標として『地域に愛される会社・お店づくり』を掲げる会社もあります。
地域のみなさんに会社を知ってもらうことで、社会的地名度やイメージアップを図ることで
来客数を上げる狙いもあるかもしれません。

しかし、地域の清掃ゴミ拾いと来客数の間に因果関係があると証明できるかと言えば、
何とも言えないです。
来店される方に、1人1人アンケート調査を実施して来店された理由が
『地域の清掃されている方がこの店の方だと分かったため』と書く方が何人いるのか?と
統計を取らないといけなくなりますから。

では、どのようにすればやりがい搾取ではないのか?会社が生き残るためには?

先ほどのやりがい搾取と判断されやすい場合から考えていきましょう。

  1. 仕事量に対して給料が低すぎる。
  2. 精神論を押し付けられる。
  3. 労働時間とは扱われない時間がある。

    ここから考えると、
    1.仕事量に対して給料・特別賞与、休暇(有給休暇含む)が妥当であるか?

    2.ただの精神論ではなく、その労働が会社内やお客さんに対してどのように役立っているのか?目的や意味、仕事の面白さ・楽しさを幹部が現場に伝えることができているのか?

    3.ここは難しいのですが、就業規則の内容と現場がかけ離れていないか?
    朝礼1つにしても、就業時間と見なすのか?と議論もあります。
    (他の人よりも早く出社して新聞記事を読む行為も業務になるのか?など)

    あとは、ニュースの話題になる『早めにタッチオン・打刻させて実はサービス残業が発覚した』
    とかもそうですね。

社員・従業員を粗末にして奴隷のように酷使すれば、最後は必ず会社・組織にはね返ってきます。
1人1人が歯車です。歯車1つ損ねるだけで物事が動かなくなります。
社員・従業員を粗末にすることは、目先の売上・利益は何とかなっても先が続かないです。
もう同じ手が通用しません。周りは手の内を見ているのですから。

あとは組織が崩壊することが速いか遅いかだけです。
これは世界どこの歴史から切り込んでも、たどり着くのは同じ結果です。

ここまでは会社に焦点を当ててきました。
だからと言って、従業員たちも他人事・相手任せでいいわけでもないのです

従業員(アルバイト・パート含む)として働いている以上は、会社・お店に所属している以上、
権利主張ばかりというわけにはいきません。
所属している以上は、会社の方針や業務命令に従って仕事をしなければいけません。
どうしても嫌なら、職場を変えるしかありません。
『そんなカンタンに言われても…』と言われても、まずは命と健康あってこそです。
命と健康があってこそ、叶えたい夢も日常の何気ない平穏も手に入るのです。
命と健康を損なうということは、自分や相手を粗末にすることです。

命と健康を損ねて、過去の自分に後悔したり、相手のせいにしている時間は、
もしかしたら、その時間はもっと楽しいことや充実した時間にできたかも知れないからです。
その結果、心も体も、私生活も仕事も充実していたかもしれないからです。
自分1人で生きてきたみたいに錯覚しやすいですが、今日まで生きてこれたのは親兄弟姉妹・祖父母、学校の先生、習いごとの先生や友達など、周りの人の影響も大きいです。

または自分の仕事に意味や価値を見つけられない人も多いですが、
本当は自分が何となくやっている行為は、見てくれている人が必ずいます。影響を受けているのです。
命と健康を損ねた末、最終的に過労死・過労自殺はあまりに惜しいことです。
だから決して1人孤独でもないですし、1人で全て何とかしてきたとも言えないです。
(僕も人のこと言えないのですけど…)

命と健康を守った上で、自分自身、1日の半分近く過ごす仕事について
夢や目的、将来について考えて仕事を全うしながら主張するときは主張することも
必要ではないでしょうか?